バドバカのココロ♪ その1  

   

「 バドバカがん患者の           
       ネバーエンディングストーリー 」
   


告知の一撃は、闘いのゴングのように。

 部屋がちらかりっぱなしでも、流しにお皿がたまっていても、練習時間となればラケットバッグをかついで体育館へまっしぐら! 主婦にあるまじき熱中ぶりで趣味のバドミントンにあけくれていた私がそのしこりと出会ったのは、37才だった1998年の師走。
 風呂あがりに、右胸のわき寄りの方に小さなふくらみがあることにふと気づき、さわってみるとゴリンとした感触。「何で今までこれを見逃していたんだろう!?」と、その異様な存在感にドキンとする。母が5年前に乳がんを罹患していたので、私は以前よりは自分の胸に注意を払ってきたつもりだったのだ。
 これは早く専門家に診てもらわねばと、翌週の月曜日、乳腺専門医の診察を受ける。多少覚悟して行ったのだが、「多分、悪いものじゃないと思います。でも念のため、もう少し詳しい検査をしてみましょう。」と言われ、クリスマスイブの日に超音波検査、翌年の1月5日に「穿刺吸引細胞診」の検査を受ける。  
 そして、闘いのゴングが鳴らされたのはその1週間後の1999年1月12日。
 「先日の細胞診の結果、残念なことに悪いものが見つかったんです。乳がんです。」と、まるでドラマのように医師から告げられた。
 我ながらガッカリするほどありきたりなのだが、告知された瞬間は「ガーン!」と頭に一発お見舞いされて軽く気を失っているような感覚。現実感がないので悲しみすら感じない。しかしその余韻に浸っている暇もなくあわただしく入院までのスケジュールを聞かされ、次々と様々な検査を受け、その日のノルマを全てこなした頃にはくたくたになっていた。
 帰り道、車を運転しながら、「もしかしたら私の一生は思いのほか短いかもしれない。でも、今、息子を残して死ぬのは絶対いやだ! 私、死んでる場合じゃないぞ! 絶対がんをやっつけるぞ!」と心底思う。「体育会系のど根性で、全力を尽くして闘ってやる!」と自分自身に決意表明しつつ、運転する目にはワイパーが欲しかった。

バド、のち、涙の集中豪雨の日々。

 これまで私は人前では決して涙を見せない強情な女として生きてきてしまった。が、自分ががんだと知り入院するまでの間は、過去の分を一挙に取り戻してしまうほどよく泣いた。しかし一人の時でなければ泣けなかったため、「秘密の泣き部屋」としてお手軽に利用できるポンコツ自家用車にはこの頃大変お世話になった。
 といっても入院を控えたこの時期にゆっくり泣いていられるほどの猶予はなく、ビデオの早送りのように猛烈に忙しい毎日だった。まずは引き受けていた仕事を全て、入院までに速攻でアップ。(私は昔からフリーで広告の仕事をしている)次に、留守をしている間に家族が困らないよう、家の中を整理しながらあれこれと工夫して準備。そして一番入れ込んだのが、我が愛するバドミントンだった。
 「そんな大変な時に何をノンキな・・。」と気がしれない人も多いだろう。しかしそこが“バドバカ”の“バドバカ”たるゆえんなのである。(これ以降の文中では、しばしばこのように「バドミントン」を「バド」と略させていただく)
 私の場合、がんができたのは利き腕側であったし、この先はスポーツできるような状況ではなくなることもあり得る。少なくとも手術をしたら当分の間はラケットを振れないことは確実なのだから、手術前に無理にでもバドざんまいしまくってやろうと思ったのだ。
 この世界を知らない人から見れば、気楽な主婦のお遊びにしか見えないだろうママさんバドミントンだが、どんな物事であろうと本気で踏み込んでいけば奥深いのと同じように、この世界も実は驚くほど多彩な魅力にあふれ、どこまでも奥が深い。健康づくりのためにほのぼのとバドを楽しんでいる人もいれば、そこらの学生よりよほど熱心に厳しい練習を重ね、ママさんの世界での全国大会でしのぎを削り活躍している選手たちもいる。
 中には元実業団、元ナショナルチームなどというつわものまでいて、この世界のトップ選手たちの技術と体力と闘魂と努力は、ママさんバドミントン(*正式には「レディース・バドミントン」と呼ぶ)などという言葉から浮かぶイメージをはるかに凌駕して素晴らしい。 私はそんな域には遠く及ばないものの、バドミントンはすでに人生に欠くことのできない大切なアイテムの一つとなっていた。
 とにかく入院するまでのわずかな間、これまでどおりバドできるように、病気・入院のことは一緒に練習している実の姉や友人たちには一切秘密。ハードスケジュールの日が続くので、心配をかけて止められないよう家族にさえ入院直前まで秘密にしてしまった。
 入院までに練習できたのは7回。私は練習回数をカウントダウンしながら体育館に通っていた。体育館に着けば、いつもどおりの仲間と、いつもどおりのバカ話に、いつもどおりの大笑い。しかしその中で、私だけがまるで違う存在になってしまったかのよう。告知された瞬間に魂が津波にさらわれ、仲間たちといた所から遠く離れた深い海の底に引きずり込まれ、体はそれまでの世界にあっても、心はずっと、暗く深く冷たい海底を浮遊しているようだった。
 唯一、その暗い海から戻ってきているように思える時間が、コートでシャトルを追っている時だった。たとえゲームの中の1ラリーの間だけでも、病気のことを忘れていられる瞬間があることは大きな救い。とはいえ体育館から帰る車の中では必ずボロボロ泣けてしまい、その顔のまま家に帰るわけにはいかず、涙が止まるまで何度も遠回りをしなければならなかった。

胸は切ってもバドは切れない

 意外なことに、入院してからの日々の方が気持ちはだいぶ楽になった。当たり前のことだが病院にいると周りはみんな病人ばかりなので、自分だけが病を抱えてしまったという孤独感から解放されていた。
 そして入院から4日後の1999年1月29日、乳房温存手術(1/4 扇状部分切除)を受ける。
 告知されたばかりの時は、「命さえ助かればそれでいいから!」と切に願ったが、乳がんという病気について徐々に勉強し、そう簡単に死に至ったりはしないということがわかると「術後もバドミントンを続けられるか否か?」という点が最も気になる課題となった。そして願わくば元気にバド復帰できるよう、手術にあたっては、術後の腕の運動機能を大きく左右する腋窩(わきの下のこと)リンパ節の切除はできるだけしたくないと主治医に訴えてあった。
 しかし開けてみたところ、腫れているリンパ節があったため7個だけ切除したとのこと。後日聞かされた病理の結果ではリンパ節転移はゼロであったので、結果的には切除はしなくても良かったと言えるかもしれないが、だからといってその点を不満に思うことは無論なく、転移がなかったことに安堵した。
 ただ手術の翌日は、右腕が想像していた以上に上がらないことに少なからずショックを受けた。この日からすぐリハビリが始まったのだが、患側の右腕の指を動かすだけで右胸とわきの下が焼けるように痛い。しかし、そんなふうだった腕がリハビリ3日目くらいからみるみる変化。与えられたメニューを日に2〜3回こなしていると腕は毎日確実に少しずつ高く上げられるようになり、面白いほどてきめんに効果が現われるのだ。
 そうなるとリハビリは私にとって、痛みや面倒臭さを我慢してがんばる義務的なものではなく、非常にやり甲斐のある楽しいスポーツタイムに。毎日、ジャージ姿で万歩計を付けて病院内を歩き回り、朝、昼、晩としっかりリハビリ。他の治療と違い自分の努力で結果を得られるリハビリは、私の傷ついた心と体を同時に力づけ、バドミントン復帰への希望を持たせてくれたのだった。
 ところがその思いとは裏腹に、この当時、主治医は私に「バドミントンはもうやめた方が良い。」と主張し続けていた。その理由は、7個だけとはいえ利き腕側のリンパ節を切除した私の場合、患側の腕を酷使するバドミントンを続けることによって、「リンパ浮腫」という深刻な後遺症を引き起こしてしまう怖れがあるから、とのこと。
 しかし私は容易には納得できず、それ以降もインターネット等で「リンパ浮腫」について情報収拾したり、ネット上で他の乳線専門医にもバド復帰について質問してみたり、利き腕側のリンパを郭清しながらもバドを続けている私と同じママさんバドミンターを見つけて話を聞いたりしているうちに、「私はバド復帰する!」という結論に勝手に到達してしまったのである。(*現在では主治医も私がバドミントンを続けていることを知っている)
 「出るか出ないかわからない後遺症のために、こんなに好きなバドミントンをやめることはできない。リンパ浮腫が出ない限りは、腕を充分ケアしながらバドを続けよう。もし発症してしまったとしたら、その時は潔くバドをあきらめて、専門医に駆け込んで徹底的に治療しよう!」というのが私が出した結論だった。


がんとバドが教えてくれたこと。

 1999年2月、無事退院。約1ケ月にわたる放射線治療が3月一杯で終わり、4月から少しずつコートに復帰。この頃見上げた桜の美しさは、一生忘れない。
 以来私は、患側の右腕では決して重い物を持たないようになった。ラケットバッグは必ず左肩にかけ、バドミントン以外では極力右腕を疲れさせないよう気を配った。それでもバド復帰して一年ちょっとの間は年中腕が重かったりだるかったりして困ったが、朝起きた時と練習後のマッサージを欠かさず行い、疲れがたまった時は無理せず休んでコントロールしながらバドミントンを続けた。
 また、術後服用している抗ホルモン剤の副作用と思われる更年期障害的な症状にも時折り悩まされたが、術後1年半を過ぎた頃には、薬の副作用も腕の重さもほぼ感じないようになり、体調もすっかり回復。
 そして、術後2年半を経過した2001年の11月。好運が重なり、30歳以上のバドミンターたちの全国大会である「全日本シニアバドミントン選手権」に出場。パートナーの実力に引っぱられ、40代混合ダブルスの部でまがりなりにもベスト16に残る事ができ、体育館から泣きながら帰っていたあの頃の私のところまで走っていって、報告したい思いだった。

 私は術後よく「オリンピックに出るわけじゃないんだから」とか「それでご飯を食べてるわけじゃないんだから」というセリフの後に「これからはバドミントンは控えて、体をもっといたわりなさい。」と続く助言をしていただいた。
 それはどれも私を心配してくださった言葉でありお気持ちには感謝したが、実を言うと私はその都度小さな悲しみを感じながら、反論したい気持ちをおさえていた。その意味を知っていただきたくて、今、この原稿を書いている。
 言うまでもなく私がやっているバドミントンは、報酬や地位を得られるわけでも、学生のような未来があるわけでもない。しかし私は私なりのステージで、バドへの夢を持っている。明日はより上達したいと願いながら、今日シャトルを打っている。
 とはいっても私は、その夢や願いが近い未来にきっと叶うという目算があるから練習しているのではない。未来は何も約束してくれない。再発し病状が悪化し、バドができなくなる近未来だってあるかもしれない。
 でも私は損得や未来のためにバドしているのではない。今、仲間とシャトルを打ち合うことが楽しくてたまらないから。今、バドミントンが最高に胸を熱くさせてくれるからバドしているのだ。
 他人から見て、それがさほどの価値があるようには思えない趣味であり、がんという病気を患いながらもその趣味にこだわり続けることが愚かしく見えようとも、それがその人の人生をどれだけ豊かに彩り、どれだけ大きな喜びを与えてくれるかは当人にしかわかり得ない。
 私にとっては、大好きなバドミントンをあきらめてストレスを抱えながら大人しく生きていくより、後遺症を発症する確率が上がるというリスクはあっても、そこに立ったらがん患者も何もないコートの中で、がむしゃらにシャトルを追いかけていくことの方が圧倒的に望ましいクォリティ・オブ・ライフなのだ。

 がん患者なら、命が助かっただけで有り難いと思い、それ以降の人生を慎ましく暮らさなければいけないというわけではないし、人は、ただひたすら長生きするためだけに生きているのではないと思う。
 今、命のあることに感謝しつつ、私はこの先もし再発したとしても、可能な限りはバドに心を燃やし続けたい。ひょっとしたら、1週間後に地球が滅亡するとしても、それならそれでとご同類のバドバカたちと一緒にやっぱりバドミントンしているかもしれない。部屋がちらかりっぱなしでも、流しにお皿がたまっていても、性懲りもなくシャトルを追い続けて。

     


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