カツオの独り言(2)

児童ポルノ規制法に関連して思うこと


 1999年11月より、児童ポルノ規制法等法令の改訂・施行が行われ、その影響でエッチ系の画像や情報を提供していたサイトの多くが、自主的に閉鎖や内容変更を行ったというのは記憶に新しいところです。
 同法律の主旨そのものには、私もおおむね賛同するものであります。判断能力のとぼしい段階の児童をポルノ撮影の被写体に使用したり、自己の欲望のままに少女に性的暴行を加えたり、札びらで頬を叩くように途上国の児童の肉体を買いあさるような、そんな下劣な犯罪者を取り締まるのは至極当然のことと考えます。
 ところが、私をはじめ多くの人々が疑問を抱き危機感を高めているのは、この法律がそういった犯罪を取り締まるばかりでなく、犯罪につながる「かもしれない」、あるいは犯罪に「つながらないとは言い切れない」様々な社会活動まで規制し、取り締まろうとしていることだと思います。しかも何を規制の対象にするかは、事実上警察権力の判断のみで自由に変えられるということです。
 例えば、あるHPに制服姿のかわいい女子高生の写真が掲載されていたとします。見る者をウキウキさせるような明るい笑顔で、小川に素足をつけて遊んでいます。しかしこの「靴下を脱ぐ」という行為が、「見る者の未成年に対する性的衝動を異常に煽るものであり、けしからん!」あるいは「未成年の衣類を脱がせて淫らな撮影を行ったものだ」と警察が判断すれば、その場でその画像は規制の対象となり、制作者は検挙かサイトの閉鎖かを迫られることにもなりうるのです。
 冗談の様な話ですが、様々なメディア関係者にとっては、実際に深刻な問題となっているようです。

 この法律は本来、性的犯罪、ことに未成年者の性的被害を防ぐことを目的としたもののはずです。しかしその目的を達するには、まず子供を対象にした性犯罪を犯した者....具体的には未成年者への性的いやがらせ、痴漢、強制わいせつ、強姦、買春、売春のあっせん・強要等を行った者に対して、その犯罪性を明示し、すみやかな検挙と重罰を実施することが筋だと思います。極論を言えば、小学生をレイプするような人間は死刑にすればよいのです。
 ところが、現実にはこういった犯罪者への処罰はいたって軽いままで放置する一方で、児童ポルノ規制法は「まだ起きていない犯罪」を「誘発する恐れのある原因」=児童ポルノを規制・処罰しようというのです。しかしそれは実際のところ「原因」ではなく「要因」にすぎません。
 犯罪につながるものはみな犯罪の原因なんだ!....そんな暴論が通るなら、こんなバカ話はいかがでしょうか?

 市長「最近、市内で凶悪犯罪が増えて困っている。犯罪者の検挙、処罰を強化してほしいんだが」
 署長「刑期をのばせばそれだけ刑務所の維持にかかる費用が増えますよ。そんなことより、起きた犯罪は放っておいて、原因を絶つのが良策でしょう」
 市長「おお、それはいい。で、どうするのかね?」
 署長「市民のだれかが犯罪を犯すのだから、市民をあらかじめ皆殺しにすればいい。それで犯罪の原因は0ですよ。ハハハ!」

 問題は、「児童ポルノグラフィーが市民の命と同じくらい重要なものか?」という点にある....と思われがちです。しかしそうなのでしょうか?
 現実には私も、第二次性徴以前の幼女の裸体にはほとんど反応するものがありません。それどころかそのポルノということになれば、嫌悪感すら感じることもあります。でもだからと言って「それが犯罪の誘因となりうるから、抹殺してしまってもいい」という立場にはどうしてもなれないのです。なぜなら、それはいずれ自分の首を絞めることになるとわかりきっているからです。

1.より多くの人が特に必要としない(他方、少数ながらそれをfavoriteにしている人はいる)。
2.それ自体が人を傷つけたり、犯罪になったりはしないが、それを見た人間が刺激されて犯罪を招く可能性は否定できない。

 この二点さえ揃えば規制してもよいということになれば、いずれは私の大好きなエッチな妄想と創作、そしてその発表の大部分が刑罰の対象となるであろうことは目に見えています。
 犯罪を誘発する恐れのある著作物が規制すべきものならば、ポルノよりも殺人、暴力、戦争などを扱ったあまたの映画、小説等を規制すべきでしょう。推理小説なんてもってのほかです。いかに巧妙に殺人がなされるかを描いているのですから。
 しかしこれらを規制せよという動きは起きてこない。なぜならこういったメディアは社会の中でかなり多数の人々のfavoriteとなっているからに他なりません。
 多数者のfavoriteは守られ、少数者のfavoriteは弾圧される。....こうして見ると「児童ポルノ規制法」の基本コンセプトが決して性犯罪の抑止にあるのではなく、「異端狩り」「魔女狩り」の構図であるように思えてきます。「あんなけがらわしいものは撲滅してしまえ」「どうせ反対する人間なんて少数だろうから、法律を作ってやってしまえ(米国の圧力もあるし)」「未成年への性犯罪防止を大義名分にすれば、体裁もよいだろう」....なにかそんな印象さえ受けてしまうのです。

 ただし、だからと言って「児童への性犯罪の摘発のみが必要であり、児童ポルノ等出版物への規制は一切必要ない」とまでは私にも言えません。児童ポルノの規制には、その被写体となる児童・幼児の人権を守るという側面もあるからです。
 10歳にも満たない幼児、児童の裸体や性器を撮影し、それを販売、配布することは、少なくとも私の感覚としては「人権侵害」だと思われます。ですからこれを防ぐことはやはり必要ではないかと思います。
 もちろん「大人はよくて、なぜ児童はダメなのか?」「判断能力という点で言えば、高校生まで禁止にするのはおかしいのでは?」など、様々な問題点はあると思います。しかし僕個人としては(百歩譲ってではありますが)生身の人間を被写体とするポルノに限っては、未成年を対象とする場合にはこれを規制するという、今の児童ポルノ規制法の規制内容を容認してもよいだろうと思っています。
 ただし!それはあくまで、規制がそこまでに留まるという前提に立ってのことです。
 というのも、(これはあくまで噂の領域かもしれませんが)この児童ポルノ規制法が五年後の法改定に向けて、さらに強力な規制をめざしているという話をよく耳にするからです。それは「生身」の女性、児童に関する著作物のみを規制するという現行法の規制範囲を、将来的には「あらゆる」著作物にまで拡張し、さらにその製作、販売、配布ばかりかその所持さえも罰則の対象としようというものらしいのです。
 具体的には、現状ではマンガ、イラスト、小説といった「創作物」であれば同法の規制対象とはみなされていませんが、将来的には仮に空想のお話であっても、そこに未成年が性的対象として描かれてさえいれば(警察がそう判断すれば)処罰の対象となるし、そういった著作物を持っているだけでも処罰されるという、「特高」や「ゲシュタポ」を思わせるような規制内容になるというのです。
 噂の真偽については私は直接確認してはいません。しかし米国のいくつかの州ではこのような法律が施行されているのは事実だし、今回の日本の児童ポルノ規制法成立に際しても米国からの圧力が少なからず影響していたことからも、ただに笑って聞き流せるものでもないと思えます。

 正直言って、資本主義の袋小路の中でもなおマルキシズムを恐れるあまりに、こともあろうにスターリニズムやナチズムさえ容認してしまうような、そんな未熟でお粗末な米国の人権感覚を猿真似して、日本が矛盾の下請けをする必要は全くないと思います。
 別項「エッチメディアと性犯罪について」でも書いたように、人権侵害は許されざる人間性の喪失です。しかし同時に、想像(創造)性の否定もまた人類にとって致命的な人間性の喪失なのです。むしろ一人一人の人権をしっかり守れる社会を確立するためには、一人一人の自由な想像、自由な空想、そして自由な妄想を殺してはならないのです。
 人の心の中にまで規制の枠を広げようとする動きがもしあるとするならば、私たちはそれに断固として反対するべきだと思います。一人一人の楽しさと気持ちよさが守られ、同時に一人一人の体、心、そして人権がしっかり守られる社会の実現のために。


戻る